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食べそこなったランチ

食事は私にとって、ただの必要でなく、人生の大きな楽しみのひとつです。食卓について美味しいご飯をいただくのは、本当に嬉しいのです。お腹がすいているときにはなおさらです。

さて、イエスの弟子たちは戻ってきて、先生がサマリヤ人の女性と井戸端で話しているのを見ました。彼らは昼食を食べていなかったので、お腹がすいていたのでしょう。イエスに、「先生。召し上がってください」と言いました。ところが、主のお答えは「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」だったので、彼らは「だれか食べる物を持って来たのだろうか」といぶかったのです(ヨハ4:31-33)。

弟子たちは食事にこだわるあまり、自分たちが楽しく時を過ごすこと以外は思いつかず、井戸端で行われていたことの重大性を認識できなかったのでしょう。主イエスにとって最も重要なことは、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げること」(34節)でした。ですからイエスは、この女性の霊的な必要に焦点を合わせていました。彼女が渇望している霊の満たしを与えることができるのは、主イエス以外にはおられないからです。

私たちは、目下の必要にとらわれがちです。しかし、自分にとって「おいしいもの」ばかりに気を取られるのではなく、しっかり目を開けて、心を満たすものを求めて探している人がいることに目を向けなさい、とイエスは教えておられます。 

井戸端にイエスとともに立ちましょう。そして主イエスに用いていただいて、主だけが与えることのできる霊の糧があることを人々に語っていきましょう。

応援したい

私は少年野球チームの監督をしていますが、初めの試合で顔面にデッドボールを受けた選手がいました。幸いけがは無かったのですが、当然のことながら心理的なダメージを受け、ボールを怖がるようになりました。毎試合、勇気を奮い起こしてバッターボックスに入るのですが、全く打てません。この状態はシーズンの終わりまで続きました。

シーズン最終戦。私たちのチームは大差で負けていて、意気消沈していました。そんなとき、あの選手が打席に入りました。カ~ン!鋭いヒットです。みんなびっくりして、選手たちは大騒ぎ。彼の両親も、他の選手の親たちも大声援を送りました。まだ大差で負けていたのですが、監督も飛び上がって喜びました。みんなこの少年を愛し、応援していたからです。

神も同じです。私たちを応援しておられます。私たちを深く愛し、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」(エペ3:18-19)と願っておられます。

神は自分たちが失敗しないかと見張っていて、しくじると罰する厳しい存在だと考えている人がいます。そのような人たちに神の深い愛を伝えられるのは何という特権でしょう。神はご自分のひとり子を世に遣わされ、その御子を世の人の罪の贖いとして、十字架にはりつけにされました。それほどまでに私たちを愛し、応援しておられます。このことが分かったとき、人々はどれほど嬉しく思うでしょう。

愛すことが難しいとき

昔のことになりますが、反抗的な少年たちのキャンプのカウンセラーを務めたことがあります。ふれあい動物園の動物をいじめたり、お互いの間で取っ組み合いの喧嘩をしたりするのです。私は、冷静かつ毅然とした態度で彼らを指導しました。いらいらさせられることは多々ありましたが、彼らの物質的なニーズは必ず満たされるように、心を配っていました。

私の姿は、はた目には親切で優しく見えたでしょう。しかし、心の内は穏やかでなく、「我慢してやっている」と感じていました。このような状況で祈っていて、私は、いつくしみ深い天の父が、反抗的な子どもたちのために日々の必要を満たしてくださっていることに気づきました。パウロは、エジプトを脱出したイスラエル人の生活について、「(神が)約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました」と語りました(使13:18)が、この「耐え忍ぶ」と訳されたギリシャ語はたぶん、感謝しない相手に忍耐して必要なものを与え続けたという意味でしょう。

心配して世話をしてあげても感謝せず、むしろ反抗的な態度をとる人に会うかもしれません。そんな時には思い出しましょう。神がどれほど我慢してくださっているかを。それだけではありません。神は私たちに聖霊をくださいました。聖霊は、好きになれない人や恩知らずな人にも愛をもって応答できるように、助けてくださいます(ガラ5:22-23)。

愛すことが難しい相手を愛せるように、主よ、どうかあなたの忍耐をお与えください。

あいしてる

夫婦で公営プールにいたとき、周りの人たちが空を見ているのに気づきました。小型飛行機が飛んでいて、煙で何かを書いていました。じっと見てみると、パイロットは「あ・い・し・て・る」と書いていきます。人々は、ひょっとしたらプロポーズではないかと推測し始めました。ロマンチックな男性が恋人と一緒に、どこか近くのバルコニーにいて、「結婚してください」と、今にも告白するのではないだろうかと。さらに見ていると、「あ・い・し・て・る、ジ」となり、若い女の子たちの「きっとジェンよ、もしかしたらジェシカかな」という声が聞こえました。パイロットはさらに書き続けました。すると、その名は「ジーザス」でした。彼は、イエスを愛していると多くの人たちに宣言したのです。

私の友だちは、「愛しています、主よ」といって、祈りを締めくくります。彼は「『愛しています』と言わずにはいられないんだ。ぼくのために、こんなにまでしてくれたのだから」と言います。今日の聖書のみことばはローマ人への手紙6章1節~11節ですが、使徒パウロはここでイエスの御業について語っています。イエスは十字架にかけられ、葬られ、復活しました。この御業のために、イエスを信じる私たちは、今新しいいのちを持っています(4節)。もはや罪や死の恐怖に支配されず(6節、9節)、キリストと永遠に生きるために復活します(8節)。このような御業は、私たちが心を込めて愛するのに、十分に値します。

「愛しています、ジーザス」と言うのは、当然です。

私を手放さない愛よ

良い関係の中心には愛があります。聖書は、人を愛する人間になるようにとはっきり言っています。心を尽くして神を愛し、自分と同じように隣人を愛し、敵すらも愛しなさいと教えます。しかし、愛されていないのに愛するのは難しいことです。親にかまってもらえない子ども、夫または妻は自分に無関心だと感じている人、わが子に疎遠にされている老人などは、愛のない人生の苦しみを知っています。

ですから、愛されたいと思う人は思い出しましょう。神が豊かに愛されていることを。そして、その喜びを受け止めましょう。あなたのために十字架の上から注がれた神の愛によって、どれほど人生が変わったか考えましょう。神を信じるなら、神の愛があなたの欠点や失敗をおおって、一点の汚れもない義で包んでくださることに思いを巡らせましょう(ロマ3:22-24)。何ものもあなたを主の愛から引き離すことができないことを喜びましょう(ロマ8:39)。永遠に神の愛と過ごす場所が準備されていることを信じましょう(ヨハ3:16)。

ヨハネは「互いに愛し合うべき」だと語っていますが、そのとき彼は、「(神の)愛する者たち」と私たちに向かって語りかけています(Ⅰヨハ4:11、3:2)。神にどれほど愛されているかがしっかりと分かったなら、神のみこころどおりの愛に富んだ人になることは、今よりずっと簡単です。たとえあなたに愛を示さない人に対してでもです。

イエスの目

子どもたちとアイスクリーム店で並んでいたとき、顔に傷のあるこわ面の人に気づきました。服は汚れてはいませんが、しわくちゃです。私は、その人と子どもたちの間に壁を作るように立ちました。話しかけられたときも、よく聞き取らず、目を合わせることもなく、少しうなずいただけでした。ところが、妻が一緒ではなかったので、その人は私たちを父子家庭だと思ったようです。「ひとりで子育てするのは大変だね」と言いました。私はその優しい口調に、思わず彼を見つめました。すると、彼も子ども連れなのに気づきました。そして、彼が妻を亡くしてどれほどになるかなどという話を聞きました。優しい話ぶりは、こわそうな外見とは対照的でした。

まさにガツンとやられました。また外見で判断してしまいました。イエスは、人を寄せつけないような外見の人と出会われました。今日の聖書のみことば(マコ5:1-20)の悪霊につかれた男性もそのひとりです。ところが、イエスはこの人を避けるどころか、彼の必要を満たされました。

私たちには罪の傷跡や、しわくちゃの品性(誠実になろうとしても、途中でつっかえてしまうので)があります。にもかかわらず、イエスは常に愛の目を注いでくださいます。私たちも心の中で人を見下したりせず、イエスの愛で人を愛すことができるように、主に助けていただきましょう。

ますます

今日、不況が続く世の中でこだまする声は「縮小、縮小」です。政府は財政を切り詰めるよう求められ、人々はエネルギーの消費を控えて、限られた資源を大切にするよう促されます。それは誰もが傾聴すべき良いアドバイスです。しかし、信仰の世界においては、愛と恵みと力は不足することはありません。ですから、クリスチャンである私たちは神の愛をますます行動で示すよう促されています。

愛が届く

ずいぶん前のことですが、こんな漫画がありました。仏頂面の老人が、しわくちゃのパジャマを着て玄関に立っています。彼は夜の戸締りをしたところでした。カギが4つ、南京錠2つ、それにドアチェーンという用心深さです。そのとき老人は、小さな白い封筒がドアの下にはさまっているのに気づきました。封筒には大きなハート型のシールが貼ってありました。バレンタインです。愛が彼の元に届いたのです。

正義と公平だけでなく

イギリスの労働者は19世紀、劣悪な環境のもとで働きました。大人だけでなく子どもまでが、昼は危険な工場で働き、夜は汚い貧困街の自宅へ帰っていきました。多くの工場主は、労働者の福利厚生に無関心でした。